特集 核文明に抗して反核・反戦を

自立と連合への再出発を

―原水禁運動の歴史に学んで―

 

松江

労働運動研究 198610

 

戦後40年の闘いから

 

  すでに戦後四〇年たった。この間、反核反戦運動はさまざまな曲折をへて、いま重大な関頭に立っている。

  戦後日本の反戦平和運動は、世界平和運動が情勢の変化と発展にもとつく新しい質と広さをもつようになったことが理解されず、占領下著しく出発が立ち遅れ、反核運動も一九五〇年前後になってようやく開始された。日本で最初に核兵器禁止を大衆集会で要求決議したのは四九月十月二日(国際反戦デー)にひらかれたた平和擁護広島大会であった。ひきつづき五〇年には核兵器禁止を世界に訴えるストックホルム・アピールの署名運動が日本でも広く組織されて六四五万に及び(世界で五億)、朝鮮戦争下では弾圧に抗して反戦反核集会や武器輪送に反対する闘争が闘われた。

  こうした闘いの流れは講和後、各地で大衆的な反基地闘争として発展した。なかでも五三年の内灘米軍試射場反対闘争、砂川の立川墓地拡張反対闘争は、もっとも大衆的で戦闘的な反戦闘争として、折から「プライス勧告」に反対して立ち上った沖縄の米軍基地反対闘争とともに、五〇年代反戦闘争の頂点を形成した。しかしこうした戦後初期の反核・反基地・反戦の闘いは、五四年「ビキニ」から始まる爆発的な反原爆運動の大衆的な高揚の大波に呑まれて、次第に影をひそめることになった。  その後、六〇年代後半から七〇年代初期にかけて、国際的な運動の高揚と呼応してベトナム反戦運動、米原子力空母エソタプライズ佐世保寄港阻止闘争、沖縄闘争などが急速に発展し、戦後二度目の大衆的な反戦反核闘争が激しくたたかわれた。その主体は対立する各急進派セクトを中心とした学生部隊と戦闘的な労働者部隊に加えて、社・共・総評による動員部隊であった。だがこうした闘いも七〇年闘争の終焉とともに後退し、再び数十万の反核大衆集会が組織されるのは八○年代ヨーロッパ反核運動を媒介に、総評が呼びかけたとぎだった。

  一方、五四年以来の原水禁運動は、当初から官民一体の国民運動として左から右までの幅広い大衆が奔流のように全国を浸したが、六〇年安保闘争を前に右から分裂し、つづいて六三年日本共産党による体制論の持込みにより「いかなる」をめぐって「左」から分裂し、以来「原水協」「原水禁」という二大潮流に分.岐して今日に至っている。それを主.要に支えてきたのはそれぞれ日本共産党と総評であった。

  他方、六三年の分岐とともに運動の戦列を離れた婦人、青年などの既存の市民諸団体は七七年からの統一世界大会に参加することで再び戦列に復帰したが、その世界大会が今年再び破産することによって二大潮流とは別に第三の潮流として登場した。

  こうした日本における反核反戦運動の歴史は、われわれに重要な教訓を教えている。その第一は、初期のきわめて具体的で戦闘的な、そうして時として数千数万の労働者を組織する反戦反基地闘争が「ビキニ」反原爆運動のような大衆的で包括的な運動と併存提携しながら独自に癸展するのでなく、国民的な原水禁運動に埋没させられ、ひきつづく怒濤のような六〇年安保闘争の大潮流に押し流されてしまったことである。その後、七〇年闘争に向って再び激発するが、それは反核平和の運動というよりも政治的な反戦闘争というべきであろう。結局、時として激発する反戦闘争はしぼしば高揚したとはいいながら、反核反戦を独自に追求する運動がいつしか大運動、大組織に統合、併呑されてその自立性を失ってきたことは日本の運動に特殊な性格を刻印している。

  したがって第二の教訓として重要なことは、こうした大組織への統合によって具体的な問題意識と運動課題が次第に抽象化されることである。情勢の変化と緩急の要求する運動課題の変化と運動形態の多様性にもかかわらず、原水禁運動の課題と運動は十年一日の如くほとんど不変であり、年中行事のようになっている。それは単なる惰性というだけでなく、方針を異にする諸組織・諸政党がそれぞれ独自の方針で闘いながら行動を統一するのではなく、大団体に統合されるなかで内部の指導権を争う結果、その行動は常に許容される最大公約数の課題に集約される。そこには主体を前提とした連帯、独自の方針と活動を追求しながら共通課題での行動の統一だけが可能とする開かれた自由な行動は生れない。それは行動の統一を組織的な統合で代替する特殊日本的な運動の綾小化に外ならない。

  第三に、その大運動の主要な支柱は常に大労働組合あるいはそのナショナル・センターであり、地方にあっては県労、地区労である。そこでは労働者の参加する運動と市民の運動はほとんど交わらない。そのうえ労働者の参加する運動は、労働者一人ひとりが自主的に参加するというよりも労働者を組織している労働組合の参加による間接参加であり、組合員はその集会に参加することだけがほとんど唯一の反核平和の運動となる。結局、原水禁運動は労働組合あるいは政党の平和運動部となって市民の自立的参加を疎外しつつ、実は労働者階級の独自な反核反戦闘争を疑似市民的な運動で代行することになる。こうした運動と組織の状況はそれを支える労働組合や政党の力の度合に応じて運動の強弱と緩急がきめられることになる。

 

「チエルノブイリ」は何を教えたか

 

  ヨーロッパ反核運動に触発された八二年の広島ー東京ー大阪の連鎖的な反核大集会以後、日本の反核反戦運動は核情勢の緊張にもかかわらず労働組合運動の停滞を反映して再び後退しはじめた。この集会と運動のなかで芽ばえたと思われた自立と連帯の新しい契機もいつとなく土に埋もれようとした。

  こうした情勢のもとで運動の危機感をもつ活動家によって「トマホークの配備を許すな!全国運動」が組織され、各地の反トマ反基地活動をすすめつつ「ュニークな核チェック運動から非核自治体運動など大衆的な基盤の獲得へと運動を前進させた。

  また七〇年代後半の反公害運動から生まれ、その後きびしい資本と権力の弾圧のなかで運動をつづけてきた反原発運動は、中国地方の共同闘争による豊北から上関への勝利的な展望の獲得を拠点に新たな発展を追求しつつあった。その四月もおし迫った下旬、ヨーロッパからの第一報はソ連のヨーロッパ西南部で原発事故が起り、すでに放射能を含んだ雲は西流してヨーロヅパ北部を襲いつつあることを伝え、世界の耳目を聳動させた。やがて一日ごとに新しい情報が伝えられるなかで、人々は改めて重大な事態に直面していることを知った。

 こうしてチェルノブイリ原発事故は世界の人々と国際的な反核運動に、重大な影響を与えることになった。  一九四五年八月六日のヒロシマの「きのこ雲」が新しい核時代の始まりを告げる象徴であるとすれば、チェルノブイリの目に見えない放射能の雲は、現代における恐怖を国境を越えてまざまざと人類に開示する象徴であった。この事故のなかにはスリーマイル事故と合せて、戦後四〇年間のはげしい核開発競争と巨大な技術革新が陰画のようにはめこまれている。それは人類に改めて次のような重大な事実の確認を迫っている。

   その一つは、核のもたらす放射能の影響の巨大さである。ヒロシマの数百倍の放射能がヒロシマのように突然の爆発と巨大な炎ではなく、静かな日常の生活のなかに音もなくしのび込んできたのだ。ヒロシマの被害の大きな部分が瞬時のすさまじい爆発による死傷であったのに比べてチェルノブイリのそれは、いわば「純粋」な放射能の被害であるだけに底知れぬ恐ろしさを思わせた。それはいっきょに全ヨーロッパを襲って大きな影響を与えた。核と放射能

に国境はない。予想される「核の冬」を垣間見る思いである。

  そうして二つ目には改めて原爆と原発―核兵器の爆発と原子力発電所の事故が、種類は違っても全く同じ放射能による影響と被害を与えるということである。それが同じ核の利用の仕方の相違にすぎず、その素材はいつでも相互に転化できることが暴露されてはいたものの、チェルノブイリ事故はその被害が全く同じものであることを改めて事実で証明した。四〇年前、被爆後まもなく頭髪が抜け落ちた経験を持ちながら生きながらえた広島の人々が、モスクワの病床にあるチェルノブイリ被害者の頭を見た瞬間、思わずゾヅとしていまわしいあの"" を思い出したのであった。

  さらに最も重要なことは現代における核危機が、ヒロシマのようにある日ある所を突然襲う爆発的な破局としてだけでなく、昨日と少しも変らぬ今日の生活のなかに、徐々に、ゆっくりと破局が準備されていることである。しかしそれはチェルノブイリだけのことではない。

  「チェルノブイリ」が人類に与えた予兆は世界の反核運動の新たな視野を拡げ、人々に核危機の警鐘を乱打しつつ運動の新しい対応を迫っている。その意味で、ヒロシマ以後がヒロシマ以前と区別されるように、チェルノブイリ以後はチェルノブイリ以前と区別される核時代の新しい画期をつくり出した。

 

核艦船同時寄港の意味するもの

 

  そうした新しい状況のなかで八月二十四日、ニュージャージーをはじめ米核艦船による佐世保・横須賀・呉の旧軍港同時寄港は日本をめぐる核状況の新たな緊迫を告げている。

  すでに米・仏により五〇発を超える原爆・水爆を実験のために投下されて深刻な被害を受けている太平洋諸島の人々はひきつづき米極東核戦略の基地を押しつけられ、いままた日本を含む核廃棄物の捨て場の犠牲にまでされようとしている。われわれは太平洋諸国人民の闘いを通じて核の支配体制が民族の自由を奪うことを知らされた。

  ここで反核非核を闘うことは民族の自由を奪い返す闘いとけっして別のものではない。一九八○年ベラウはアメリカの圧迫を人民投票でしりぞけて非核憲法を採択し、バヌアツは人民の闘いで独立をかちとった。同年同地の非核太平洋会議で採択された「非核太平洋憲章」はまた民族の自由をめざす闘いの宣言でもある。その後ニュージランドはついに日米安保に匹敵するANZUS条約からの事実上の離脱と引き替えに米核艦船寄港拒否をつらぬいた。フィリピンの「二月革命」と韓国民主革命をめざす闘いはますますアメリカ極東核戦略体制の基盤を揺がしている。

  いまアメリカが広い太平洋沿岸で頼りにできるのは、かつての敵でありながらいま「運命共同体」を誓う口本だけである。四〇年前にアジア・太平洋をはげしく奪い合った日米帝国主義はいま軍事同盟を結んで再びアジア・太平洋を今度は核の戦場にしようとしている。自衛隊の米軍への完全な統合のもとに核基地・核通信情報基地がつくられ、日々ペンタゴンの指令は近海を遊ざするアメリカ太平洋艦隊に送られ、いままたかつての日本海軍三大軍港に同時寄港を強行した。国際的な反核運動が再び高揚の兆を見せ、アジア・太平洋の非核をめざす解放運動が進めぼ進むほど、途上国への威嚇をその主要な目的のなかに秘めつつ日米両軍のいっそうの緊密化が進められる。

  三軍港同時寄港は明らかに海上自衛隊と米太平洋艦隊のかつてない共同軍事作戦の準備を意味している。

  それはまた中曽根による新国家主義と一連の軍事化、反動化政.策をすすめる自民党がともかく三〇〇議席を超えたことを重要な政治的支えとしている。それはまた日本人民の反核感情に制約されず、むしろ威嚇的に核慣れを強制することによって半ば公然と「非核三原則」を反古にするためでもある。そのため彼らははじめてヒロシマの隣地―呉港にあえて寄港し、大胆な「聖地」踏み込みを強行した。そこには労働運動の鎮静化と大衆運動の停滞を見定めたうえで進められた彼らの計算がある。

  かつて世界の平和運動のなかで独特の反核運動で際立っていたはずの日本がいま、アジア・太平洋諸国とヨーロッパの反核運動が発展しているのとは逆に、世界反核運動の弱い環になろうとしている事実をわれわれは直視しなければならない。滔々たる後退の流れをわれわれはいかにして塞き止めるべきか。いかにして新たな反撃に転ずべきか。

 

新たな展望をめざして

 

  いま労働戦線の再編成がすすみ新しいナショナル・セソターが生まれようとしている。かつて日本の労働組合運動をリードしてきた国労が分割・民営化攻撃で引き裂かれつつ悪戦苦闘し、行革攻撃によって官公労・公労協がかつての勢いを失った。

  産別以後、あれこれの批判はあったにせよ戦闘的な牽引力であった総評の前途が危ぶまれるとき、それはただ資本主義世界経済の危機を前にした資本の経済的対応というだけでなく、危機のいっそうの顕在化を恐れる支配階級の政治的階級的な制圧にほかならない。それはまた世界で一、二を争う経済構造の発展に比べ、アメリカの「核の傘」で代行してきた軍事構造とそれに見合う政治構造の弱さをいま補強するためのものでもある。総評を支柱とした諸運動は新たな選択を迫られている。

  今年の八・六をめぐる諸清勢はすでにそれを先取りした徴候が表われている。「禁」「協」による駆け引きという細い糸一本でつながれていた「統一」世界大会が破産し、新たに名乗りをあげた「核廃絶運動連帯」がかげから総評=同盟の旗をちらつかぜながら広い知識人の呼びか

けで登場して、一方の「世界大会」を代行し、ますます「本流」をもって任ずるセクト主義的な共産党の「世界大会」と競合している。また八○年代全国的に開花した草の根反核運動はそれぞれ自立的な追求で展望を模索しながらその寄るところを迷っている。こうしたなかで「反トマ運動」「反原発運動」など各地域の自立的な反核反戦組織が新たな連合をめざして共同闘争をすすめ、核艦船寄港闘争ではその先頭で闘った。

  いま、かつてのような大労働組合の主導による反核運動の時代は終った。労働組合が主軸となった三〇年来の運動は新たな運動にその席を譲るときがきた。その運動の担い手は各分野、各地域の自立的な反核反戦組織とその連合になるだろう。労働組合は上から運動に動員されるのではなく、下から組合員の自主的参加が組織されるだろう。

  われわれはいま、大組織による上からの動員の時代が終ったことを確認しつつ、下からの自主的な運動による連合と統一の時代を迎えなければならない。その場合何よりも、大衆との結合を前提にその方向を定め運動形態を選択しなければならない。問題は組織の大小ではなく、その運動のもつ質の大衆性にある。かつて経験したようなエリート代行主義とキヅパリ訣別し、たとえいまその量は少くともその質において新たなる大衆的な展望を獲得するものでなくてはなるまい。さらに重要なことは労働組合員の参加を下から組織することである。一人ひとりの組合員が自らの意志と行動でこの運動に加わることによって、労働者の参加は準備される。強い労働組合が弱い反核運動を上から牽引するのではなく、強い反戦反核の活動が職場を励まして強い労働組合を創るのだ。こうしたなかで生れる下からの労働運動と自立的な市民運動との結合による新しい型の運動こそやがて日本の反核運動をリードするに違いない。

  いま必要なことは、こうした独自な闘いを追求する課題別の運動や地域で組織された自立的な反核市民運動の共同闘争を軸に地域的な反核統一戦線をつくることである。核艦船寄港をめぐって新しい端緒が生れた非核自治体宣言運動の継続的な追求と再点検運動は新たな運動領域を拡げるに違いない。国のことばではなく、その自治体自らのことばで反核非核を主張するか否かは、国に支配される市町村の自治と自立をとり返す重要な試金石である。

  いま非核をめざして反核を闘うことは、すなわち人間の自由と独立をまもることであり、共同体の自治と民族の自由をとり返す闘いでもある。それは一つ一つの闘いによって裏づけられながら一つ一つの闘いを超えてそれをつつむ非核の思想によって鼓吹されなくてはならない。それは人間の回復と解放の思想であり、人類が生きるための思想でもある。

 キューリ夫人が今日の原子力の源となるラジウムを発見したのが前世紀末から今世紀初頭であった。すでにその二〇世紀も暮れようとしている。「ミネルバの梟は日暮れに飛ぶ」とすれば、いま非核の思想は人類と地球をおおいつくして飛翔するときではないか。

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